実家にお世話に

まあそういうわけで、わたしは身体を壊して病気になった。
さすがに年子3人の乳幼児を抱えて、母親が病気になると、さて、どうしたか?
初めの頃は姑が遠方から泊まり込みで手伝いに来てくれた。
交代で実母も応援に駆けつけてくれた。
が、遠方でもあり、度々呼び出されては姑たちも対応できない。
さてさて、どうなったでしょう?
はい、ご想像の通り。
病気をしている本人の実家に転がり込むことが多いと思われるが、わたしの場合は、夫の実家にお世話になった。
夫抜きで舅、姑と同居。
長女は夫の実家の地元の幼稚園に入園した。
下の2人は、お姉ちゃん、行ってらっしゃい?!と、お留守番。
私たち母子は、夫の祖父母が住んでいた別棟で過ごした清黑頭
昭和4年築だが、キレイにリフォームされ、建具も表面を新調され、柱や床は美しく洗いにかけられ、快適な住まいとなっていた。
しかも、3食昼寝付き。さらに、手のかかる夫はいない。
代わりに姑が手助けしてくれる。
天と地の差。
天国である。
姑、舅は孫たちを可愛がってくれるし、わたしの健康状態を気遣ってくれる。
あれを手伝えだの、働けだの、言うわけもなく、自宅療養の身であった。
一年の療養期間を経て、夫は単身赴任を終えて、我々は今、住んでいる家に合流した膠原自生

と、この時期は、時間はゆっくり流れた。
自分が持ってきた婚礼道具も全て夫の実家に入れていたので、荷物整理と言う名の、お遊びをしていた。
遠方で赴任中は、乳幼児と一緒くたの同じ檻内の動物園のような子育て期間。
服など選んで着ることもない、着ることも出来ない。
毎日が終わればそれで良かった、そういう期間。
それが100万馬力(昭和?死語を平気で使う)の助けを得て余裕の自由時間を得た。
荷物の中から自分の若い頃、着ていたお気に入りのお出かけ服を取っ替え引っ換え、着てみた。
風通しを良くしたり、陰干したり、服の具合いを確認したり。
そのためには、着てみるのが一番手っ取り早い方法だった。
こんな服、着てた、着てた、好きだったのよね、これ、やっぱり素敵、と、こころの中では、きゃあきゃあ、はしゃいでいた。
部屋で着るだけでは物足りないので、当時、通院していた地元の病院の受診に着て行った。
1か月にわたり入院もしていたその病院に、定期的に受診していたのは病状が落ち着くまで数ヶ月続いた。
その病院に受診する度に、若い頃の、煌びやかな生活感ゼロのオシャレ服を取っ替え引っ換え着ていたものだから、良く思わない人がいても想定内。
病気になっている人々が暗く辛い気持ちで通うところなのに、生活感無く、場違いでキャピキャピしているわたし(だったのだろう)紐崔萊維他命C