価値を置く教育を受け

科学と哲学では理解出来ないことが、たくさんある。
それには変な新興宗教だったり、うさんくさいものが疑問解決へと導こうとする除甲醛公司

うさんくさくないものもある。
芸術。
芸術を理解する側と、自分が体現する側がある。
両方というのもある。
プロ野球の大ファンで応援団長をやっていたり、なおかつ、地元で仲間と草野球もするパターン。
コンサートを聴きに行き、それとは別に自分も家で演奏することもある。

で、わたし。
芸術脳が未発達。
科学脳も未発達。
唯一、発達しているのは哲学脳。
デキナイ自分を肯定し、応援するために哲学脳を駆使する。

小学校の頃から、成長期に、4教科(中学からは5教科)にだけ価値を置く教育を受けた。
その弊害が尾を引いている。
副教科はお遊び、息抜き、と。
入試の合否評価対象にならないからだ。
(芸術や体育コースには進まなかった)

だが、わたしは幼い頃からピアノ、習字、短期間ではバレエ、算盤を習っていた。
大人になってからも華道、その他諸々を習った。
全てものにならず、素通り。
素養がないのか、やる気がないのか、両方か活動場地租用
大人になってから習ったものは特に、人には言えない。
逆効果なぐらい成果がない。
たんなる暇つぶしだったのだろう。
次のライフステージへ移るまでの待ち時間。

子供の頃のお稽古は親に勧められて。
拒否する選択肢があることを当時、知らなかった。
成果があったかと言うと、どれも現在、ひどい。
習ってない人より、ひどい。
時間と労力とお金の無駄遣いか。
素直に習いに行って、親はとりあえず満足していただろう。
しかし、見事に習得していない。
(ほんの少し、知っている程度)

滋養になっていない。 
が、ここで哲学脳は、「人生で無駄なことなど一つもない」と、無表情で無機質風に答えるbackdrop 佈置

目に見えて残っているものは、全く活用されていない、形だけの免許皆伝。
その他、捨てずに残っている物、物、物、ガラクタの山。
あとは、子供、孫。

空気感も違ってくるだろ

ちなみに、この季節、年賀状自体の喪中ハガキが次々来る。
まあ皆さん、ハガキのお父さん、お母さん、ご長寿で、天寿を全うされている去黑頭
80代は若い、90代中頃が多く、100歳を超えて亡くなる方も少なくない。
と、毎年そう思っているが、年々強く思うようになった。
少子高齢化社会なんだと実感する。
我々高齢者は、まだ更に高齢の親の世話をしなければならない。
親子で一世代違うならまだしも、同世代の超高齢配偶者を介護する老老介護はもっと大変だ。

話は変わるが。
人間の苦には、病、貧困、戦争、災害の他に、老というのもある。
が、長生きすると皆、老いるわけで、それは避けられない「苦」の中に入るのか???

先週金曜日、NHK TV番組「アナザーストーリー」で豊田商事を取り扱っていた。
わたしの世代でもある会長(故人)。
暗い沼に入り込んだ気分になった。
宗教もそうだ。
弱い人のこころの隙に付け入る。

小2男児が、こっぴどく大人に叱られたとしても、環境的に普通の明るい温かい家庭に育っているなら、別に日常の一コマの断片だが、
親が離婚して親戚の家に預けられていたとしたら、しかも経済的に援助もなく、親戚も苦しい状態だとしたら、空気感も違ってくるだろうHifu 效果
昔と今では価値観も変わり、時代の色も加味される。
だが、愛情や余裕があるのと、ないのとでは、雲泥の差である。
逃げ場があるか、ないか。
追い詰められるのは良くない。

本人の資質にもよるだろうが、犯罪に手を染める人はある程度の共通点がある。
同情の余地がある不幸な環境、背景。
犯罪者と、普通の家庭を同じ土俵で論じるのはお門違いではあるが、一歩、間違えると両者は背中合わせに接している。
いつ、ひょんなことで、幸せが不幸にどんでん返しになるか、可能性はゼロではない激光脫面毛
運、不運もあるだろう。
しかしながら、、、番組「アナザーストーリー」を見ていると気分が暗く落ち込む。

ごくごくどこにでもある普通の幸せが、壊れていくのは恐怖だ。
宗教にすがりつきたくなるのも、わからないでもない。
が、、、。

筆が、どんどん暗い方向に進んでいる。
別の違う方向に転換したい。
筆は気ままで好き勝手に進み、わたしを困らせる。

グで時折書いている説を裏付け

その記事の中で、全くわたしと同じ結論に到達したことがある。
それは、、、
頭で考えた理性での行動より、感覚、直感で行ったことのほうが、良い結果を招くということ。
迷って考えるより、考えないで迷わないほうが良いらしい。
(※が、良いと感じるのは自己解釈であり、頭で考えても考えなくても同じ、ということのようだ)

自分で決めたと思い込んでいるが、実は既に決まっていることなんだそうな。
意識して考えたわけではなく、無意識でやったこと。
こういったわたしの説明は自分では理解しているのに、人にわかるように説明できない、幼児のごとく。
いかにもアタマが悪い、キレの悪い人の典型になってしまっている。
ただの思い込みや勘違いではなく、科学的実験によって証明された、理論的裏付けがある。
そこで、当のご本人ブログから引用させていただく膠原再生

???
多くの人は頭で考えてもわからないのに、何も考えず感覚に頼れば正しい答えを導き出せるのだ。
これは時として、熟慮を繰り返すよりも直感に従った方が正しいことを意味し、似た実験は他にもある。
さらに大胆にいえば、「人に自由意志はなく、脳の揺らぎで勝手に起こした行動を、自分の意志だったと勘違いしているだけ」という、本ブログで時折書いている説を裏付けるデータともいえる。
多くの行動は自分の考えや意志とは関係なく、脳が勝手に行っている。僕らはそれを「自分の意志で行った」と錯覚しているだけなのだ。
???

やはり、かなりわかりやすい。
具体的な(専門家の)実験結果を紹介しながら、納得できる説明になっていた。
じつは、これと同じ内容のことを知人Aさんから聞いたことがある。
結論としては全く同じことだったので、わたしとしては2度目のレクチャーを受けているかのような、再放送を見ているかのような、そんな感じだ。

そしてAさんは、わたしこそが感覚人間だと指摘した。
考えているのではなく、直感で進んでいて、それが正しい道だったとのことhairless 脫毛好唔好
わたしは一生懸命熟考し、苦しみ悩み試行錯誤した結果、今の自分があると自負していたのに、そうではないらしい。
一笑に付された。
まあそう言われてみると、ムキになって反論するには至らない。
そうかも知れない。
考えても段々わからなくなって眠くなるか飽きてくるか、途中で投げ出すことが多い。
明日、続きを考えよう、と。
明日になったらすっかりそのことは忘れて、明日また別の案件に取り掛かる。
生活に追われる。
ただし、〆切があるものに関しては、わからないままお尻に火が着いたまま適当に答えを出すか、考えるのが面倒な時は、一番最初に頭に思い浮かんだことを採用する。
叩き台として原案を作り、改善、改良したり手を加えない。
一向に進まないか、わからないまま答えを出すかのどちらか。
1かゼロか。コンピュータ記号脳。

知人Bさんは、全くといっていいほど考えない。
自分が取る道を選ぶ時、とりあえずコースを具体的に調べて(値段や時間、方法)、調査が揃ったところで、即座に1秒で選ぶ。
それが自分の身体にメスを入れる大事な局面、病気や治療のことであっても。
この人、考えてないなあと驚いたが、あれはあれで考えているのだろう。
自分のことは自己責任でやっていただいたら宜しいが、他人が関わってくるとそうはいかない。
話し合ったり、調整したり、アイデアを持ち寄ったり、原案を元に、作り上げていくコースがまるっきり無い。
そんな人が身近に何人もいる。
一緒に作り上げないとしても、提案したり、せめて説得するなり納得させるなりの根気がいるプロセスは必要だと思う雪櫃唔凍
全面おまかせは、時と場合によっては良くない。

た時間を取った上でゆっく

昨日の富裕層デパートの記事。
行きの電車の中でほとんど入力し、締めはアポ待ち時間、さらに仕事の空き時間に、加筆訂正したので、まとまった時間を取った上でゆっくり考えられなく、どうも、アタマの中で自分なりの、すっきり感がない。
納得の結論が導かれないまま、今日の朝を迎えた雪櫃哪個牌子好

で、たまたま、寝ぼけた顔で起きてきた次女に、投げかけた。

「昨日の話なんやけど、どうも、もやもやする」

いつもならメンドくさ煙たがられるところが、本日は非常に珍しく、話に付き合ってくれた。
で、手短に問題点や疑問点を話した。
途中、脱線しまくりで、(「話が外れてるで」と指摘されるまでもなく)ちっとも手短ではなかったが。

次女曰く。
「人の目を通しての富裕層ウォッチングではなく、自分の目でHデパートに行って、見てきたらDermes?」

なるほど。納得。

そもそも、富裕層とは?その定義、捉え方が、わたしの姉と、わたしとは微妙に違う可能性がある。
姉妹であるが、家を離れるまでは同じ育成歴でも、離れてからは違う別人生。
(そもそも生まれた時から別人格)
多少の誤差は生じるだろう。

で、
富裕層うんぬんよりも、ファッションセンスの問題ではないかと。
センスは、人によって違う。
多くの人に愛され憧れられるファッションが好きな人は、求めているものと、求められるものが同じだから、一直線で、やりやすい。
わたしのように、自分の好きなものと、一般的な好みとに多少のズレがある場合が、ややこしい。
決して人様からの賛同を得たいわけではないが、人が良いと思っているものに対しても、確かに物理的には良いとは思うが、それがどうした?と、なる。
自分もマネしよう、取り入れよう、参考にしよう、とはならない。
否定はしないが、なびかない。
肯定するとしても、多くあるものの一つ一つとして、それぞれを肯定する。
決して、それだけが良い、他のものは良くないとは思わない。
ふ?ん、そうなの、それで?
と、なってしまう。
可愛げない。
自分の核を持っているから、混じったとしても、溶けないのだろう。

ファッションから入る富裕層、こういう流れで定義しようとするから、すっきりしないのだ。
ファッションそのものに、頑とした自分を持っているので、「高そう→富裕層」という式はあっても、「マネしたい、参考にしたい」とならない。
しかも、最近のわたしは、同じ「高そう」でも、ファッション性を追求するのではなく、快適性、機能性を重視する傾向にあると思われる。
だとすると、ウォッチングは正解だ。
見て楽しむ。自分なら、買わない、着ない。憧れない。
「ふ?ん」の一種。

人それぞれ価値観は違うし、ファッションセンスにいたっては、もっとバラバラ。
だから、服が売れるのだろう755 脫毛

歩んできた道によって、価値観は分かれる。
ファッションセンスは、さらに価値観以前に、感性の問題。
「好み」ってやつである。
人それぞれで、どれも正解で、決まりきった模範解答はない。

んなり諦め目的地をカッ

台風がやって来るという3連休、台風の進路と競争するかの如く、不要不急の旅に行ってきた。
(その割に特急指定席は空席なし、満席)
天候恐怖症のわたしは、猛烈に心配で憂鬱だったのだが、参加家族メンバーたちは全く気にしていないようだった。
宿泊ホテルの部屋のテレビで台風情報ばかりを見ていたこともあり、不安は募る一方だった活動製作

3日目だけは、交通機関が計画運休するというので、お昼には帰路に。
3日目の旅プランは比較的近場だったため、今回でなくてもいつでも行けることもあり、すんなり諦め目的地をカットした。

台風も直撃は免れ、不安に慄いたものの肩透かしだったが、安堵した。
ああやれやれ。
無事帰ってきてこんなに喜んだことはなかった。

孫は目を見張るほどしっかりしてきて、方向音痴のばあちゃんを追い抜かした成長ぶりには喜ばしいものを感じた。
が、娘たちから投げかけられる手厳しい注意事項などで、キツくて涙が出そうになった。
地元に戻った最寄り駅では、(2歳児にべったり手が離せない)長女の疲労はピークに達したようだった。
ノーテンキな一言を言ったわたしは、長女にピシリグサリと言葉を浴びせられ、強く痛く鋭利に胸に突き刺さった香港加拿大移民

合同家族旅行はもう無理かも知れない、なんて思ったりもした。
もう少しわたしたちが弱り、もう少し孫たちに手がかからなくなったら、もう少しは言葉が和らぐのではないかと甘い予想をした。
さらに、孫たちが成人になり、わたしたちがサポートが必要なぐらい益々弱ると、一緒に旅行には行けないだろう。
キツく当たられる今が、華なのかしらん。
子供がシッカリしているのも、嬉しいような、キツイような。
ちょうど良い中間はないものか。


我々はいつまでも頼りになる親ではなく、役に立たず段々お荷物になろうとしているのか。
サポートする側からサポートされる側に移行するスライド期間が微妙である。
力が交差し、逆転する。

未来図を垣間見た思いがした。
が、順送りである。

敬老の日には、なかなかシビアな贈りものである。
感謝され敬われようなどとは甘いと思った。
とことん自立できなくなったら、悲しみもなくなり、期待もしなくなるのだろう。
中途半端にまだ我々は元気なだけに、子供世代と力と力がぶつかり合う。
自分のパワーがまだある証拠かも知れない绿色债券

きないのはなんだか肩身が

今日は、移動時間が長いから、買ったばかりのタブレット用充電器を携帯している。
エッセイブログを3つ読んだところ。
電車内の皆様は、マスクマンが多いので、我が身を振り返り、ちょっと気まずい。
家を出る時にマスクを忘れないように、とアタマをかすめていたのに、しっかり忘れている。
念じ方が足りなかったようだ移民多倫多
マスクを携帯していて、マスクをする、しない、の選択肢があればいいが、マスクをしてない、できないのはなんだか肩身が狭い。

隣に座った母子は、母がヘビーに話しかけている。
あの年齢では話しても、一方通行だと思うが、ベビーは自分は話さなくても先に耳から言葉を覚えるらしい。

ただ、延々と話しているママは、なんか独り言、つぶやきみたいで、ちょっとなあ、、、
なぜなら、ベビーに言いたいことを伝えるのではなく、自分が思ったことや感じたこと、アタマに浮かぶことをペラペラ話している。
一人なら、アブナイ人だが、たまたまベビーを連れているから、どうにか独り言の変な人オーラは、感じさせないけれど、、、
やっぱり変な人のように思えてしまう。
わたしも、あんな感じかも知れない。

そのママ、心の声をいちいち発声するものだから、ついつい、「ちゃうちゃう(大阪弁)」とツッコミを入れたくなってしまう澳洲188B
まだ新米ママのようで、ベビーの行動に対するリアクションや、話していることが、「そうじゃないと思うけど、、、」と違和感たっぷり。

わたしも、席、真隣でスマホ入力に余念がない、可愛げのないオバさん。
孫がいるお年頃なら、ベビーをあやしたりするものなんだけど、知らん顔。
わたしは独り言タイプの人は、めんどくさいので近寄らないことにしている。
なのでベビーにも近寄らない。

いちいち、わたしのツッコミ本能が、ぴこぴこ出て出て、引っ込ませるのに疲れる。
神経に刺さるので。

お互い、大阪駅で降りて元々そうだったように、アカの他人になった。
ママは、ベビーに「(電車内)お利口だったね」と褒めていた。
ベビーを飽きさせないよう、グズらせないよう、矢継ぎ早に話していたのかも知れないママではあるが、余計な心の声が多すぎて、わたしには、たいへん煩いノイズになった。

周りの雑踏的会話など、気にならない人は全く気にならないようだ。
が、わたしは喫茶店や電車内などでの他人の会話は、200パーセント、クリアに聞こえる。
しかも、いちいち脳内反応が起きる。
なぜか高度センサーがフルモードで機能して、わたしの感性が反応しすぎて、無駄に疲れる澳洲買樓

わたしは全般的に鈍感なくせに、変に過敏な部分を持ち合わせている。
わたしこそが、変な人なんだろう。

ぼーっとして今日は、マスクを忘れた。
だが、わたしにとって、もっと必要なのは、アイマスクと耳栓かも知れない。

成果が得られそ

昨日の午後、脳みそをギューっと収縮させて考えた。
ギューっの耐久時間はさほど長くなく、持たない。キャパが小さい。
のではあるがserviced apartments in hong kong、、、。

ある諸手続きをしていて、こうするなら、こう、こうなるなら、こう。
今後の人生の行き先。計画。
時間、労力、気力、お金。
残った時間とお金でやりたいこと、やれること。
使える時間と使えるお金。
どうだろ、どうだろうねーと、
縦軸、横軸などアタマのグラフに描きながら考えた。
うーん、うーん、うーん、、、
インターネットであれこれ制度などニワカ勉強曼城樓盤
同じ物事をするのなら、世の中の便利でお得なシステムを駆使したほうが、何割か増しの成果が得られそうだ。
(まだ成果主義から離れられない哀しいビンボー症のわたし)

で、あれこれ検索、研究、検討した。
一晩寝て、昨日考えていた方向性と、今朝考えた方向性がちょっと小さな違いが出た。
やはり時間を置くと変化する。
これならもっと変化しきるのを待って行動すると良い?
その頃は、おそらくベッドから一歩も立ち上がれない可能性がある。
心肺が動いているものの、身体だけならまだしも、脳もハートも、静かになっていそう。しーーん。

ブレなくなるまで待ちきれない。
いや、ある程度、待ったほうが良いのか。
まだ明日も明後日も来年も再来年も、それ以後もある。
ゆっくり考えよう。

だが、わたしが申し込もうかどうしようかと悩んでいる事柄は、来年3月に申し込み期限を迎える。
ぼやぼやして逃すのも、一つの道。
意図して逃すのか、のろまで逃すのか、それはそれ。
どっちが良かった、なんて、後年にならないとわからない。
今、言えることは、どっちになっても大差はないということ。
小さな、ささやかな迷い、悩みである。

そうやって一生、過ごしてしまうのか?
うーん、、、やるべきこと、やりたいことは、抑えておきたい。
秋になって涼しくなったら考えよう、、、
と、またまた先延ばし優秀人才入境計劃