んなり諦め目的地をカッ

台風がやって来るという3連休、台風の進路と競争するかの如く、不要不急の旅に行ってきた。
(その割に特急指定席は空席なし、満席)
天候恐怖症のわたしは、猛烈に心配で憂鬱だったのだが、参加家族メンバーたちは全く気にしていないようだった。
宿泊ホテルの部屋のテレビで台風情報ばかりを見ていたこともあり、不安は募る一方だった活動製作

3日目だけは、交通機関が計画運休するというので、お昼には帰路に。
3日目の旅プランは比較的近場だったため、今回でなくてもいつでも行けることもあり、すんなり諦め目的地をカットした。

台風も直撃は免れ、不安に慄いたものの肩透かしだったが、安堵した。
ああやれやれ。
無事帰ってきてこんなに喜んだことはなかった。

孫は目を見張るほどしっかりしてきて、方向音痴のばあちゃんを追い抜かした成長ぶりには喜ばしいものを感じた。
が、娘たちから投げかけられる手厳しい注意事項などで、キツくて涙が出そうになった。
地元に戻った最寄り駅では、(2歳児にべったり手が離せない)長女の疲労はピークに達したようだった。
ノーテンキな一言を言ったわたしは、長女にピシリグサリと言葉を浴びせられ、強く痛く鋭利に胸に突き刺さった香港加拿大移民

合同家族旅行はもう無理かも知れない、なんて思ったりもした。
もう少しわたしたちが弱り、もう少し孫たちに手がかからなくなったら、もう少しは言葉が和らぐのではないかと甘い予想をした。
さらに、孫たちが成人になり、わたしたちがサポートが必要なぐらい益々弱ると、一緒に旅行には行けないだろう。
キツく当たられる今が、華なのかしらん。
子供がシッカリしているのも、嬉しいような、キツイような。
ちょうど良い中間はないものか。


我々はいつまでも頼りになる親ではなく、役に立たず段々お荷物になろうとしているのか。
サポートする側からサポートされる側に移行するスライド期間が微妙である。
力が交差し、逆転する。

未来図を垣間見た思いがした。
が、順送りである。

敬老の日には、なかなかシビアな贈りものである。
感謝され敬われようなどとは甘いと思った。
とことん自立できなくなったら、悲しみもなくなり、期待もしなくなるのだろう。
中途半端にまだ我々は元気なだけに、子供世代と力と力がぶつかり合う。
自分のパワーがまだある証拠かも知れない绿色债券